(出典)ちいき新聞南越谷版 平成29年7月28日
月: 2017年7月
お寿司「いなり山」コンサート
7月22日は、1週間前のイオンモーニングコンサートに引き続き、巨勢典子さんとご一緒し、一ノ割にあるお寿司「いなり山」さんでコンサートを行いました。
「いなり山」は、東武スカイツリーライン一ノ割駅を降り、踏切を渡って西側に出て、一ノ割呑龍通り商店街の中を抜け、円福寺を右折したところにあるお寿司屋さんで、駅から5分程の距離です。
「呑龍通り」という名前が不思議でしたが、円福寺に戦国末に生まれた呑龍上人に因んでつけられたようです。親の病気を治そうと国禁を犯し鶴を殺した少年を匿い罪になったことから、「子育て呑龍」として庶民から崇敬されていたそうです。なお、円福寺の隣にはルネッサンス呑龍幼稚園があり、外観は一見の価値があります。
先週もお世話になった松尾さんと、五十八亭ふすま丸さんのごあいさつでコンサートが始まり、18時半から20時過ぎまでの1時半を2部構成とし、前半は巨勢さんのオリジナル曲、後半はオカリナ紹介のオカリナアラカルトや会場の皆さんもご存知の曲を中心に演奏しました。四十人近いお客さんで、カウンター席と座敷席は一杯となり、おいしいお寿司や刺身をいただきながら、楽しい一夜となりました。
イオンモーニングコンサート
ブラTOKOです。7月15日は埼玉県越谷市千間台に出没してきました。「台」と呼ばれる地形の探求です。JR根岸線沿線の洋光台、港南台、本郷台周辺を動き回った経験があり、「台」には詳しいです。
せんげん台駅を降り、駅前広場に立って、そこから南西に埼玉県立大学へ向かって延びる道路を見ると、真っ直ぐで起伏もない道で、坂道も断層崖もありません。何故、「台」?? 横浜の〇〇台は山あり谷ありなのに?
明治の初めに作られた地図「第一軍管区地方2万分1迅速測図原図」を見てみると、やっぱり平坦な地形で、一面水田です。駅周辺は間久里(まくり)村とよばれたようです。「間久里」から「千間台」に変わったのは、昭和42年に新設開業した「せんげん台」駅とあわせて整備された土地区画整理事業と関係があるようです。千間台地区の北を流れ、春日部市との境界となっている新方川の旧称が「千間堀」であり、これに因んで千間台と名付けられたようです。
さて、本当はイオンせんげん台店のイオンモーニングコンサートに作曲家・ピアニストの巨勢典子さんと一緒に出演するためにやってきました。
千間台は15日、16日と夏祭りのようで、コンサートのコーディネーターのイオンせんげん台店CS担当松尾さんの開会あいさつでは、お店はお祭りのため配達などで大変忙しい、夏祭り会場の第4公園には猛禽類のツミ(雀鷹)のつがいが子育てをしているといったお話をされました。
コンサート会場は2Fのイオンラウンジで、椅子席約70席、立ち見の方を含めて80人を超え、ラウンジ一杯のお客様で満員御礼となりました。プログラムは、前半は巨勢さんのオリジナル曲を、後半は朝の連ドラのテーマ曲やオカリナ定番の「コンドルは飛んで行く」を演奏しました。
三管一弦コンサート
6月29日には流山のギャラリー平左衛門、7月1日には土浦のコーヒーハウスAMORにおいて、河崎敦子(オカリナ)、宮越悠佳(フルート)、渡辺大輔(ケーナ)、角圭司(ギター)のカルテットによる三管一弦コンサートを連続開催しました。
ギャラリー平左衛門は東武アーバンパークライン運河駅の近くにあり、現館長山田喜雄氏の曽祖父山田平左衛門の依頼により梅郷村山崎(現野田市山崎)の大工棟梁佐藤庄助則久が明治27年に29円26銭で請負・建築した小壁倉を、平成19年にリノベーションしたホールです。
山田平左衛門は、関ヶ原の役後に流山に落ちのびた石田三成旧臣の後裔で、明治23年竣工の利根運河の通船により財をなしたそうです。佐藤庄助則久(1835~1922)は子どもの里次則壯(1879~1952)とともに立川(たてかわ)流の宮大工で、この親子は幕末から昭和初期までの約80年間にわたり、野田近郷の寺社仏閣の普請や神輿の制作に従事しています。また、庄助は明治12年には赤坂御所の御用仕事にも携わったそうです。赤坂御所は、明治6年旧江戸城西の丸御殿の失火焼失から明治21年の明治宮殿の落慶までの間、皇居の役割を務めていました。
コーヒーハウスAMORは近くの農場(ゆはらベジガーデン)から取り寄せた新鮮な野菜たっぷりのランチが大好評でした。